川上 貞奴 (1871〜1946)
日本の女優第1号。本名 小山貞。
幼い頃に芸者置屋の養女となり、明治20年(1887)、
売れっ子芸者になって「奴」とよばれるようになりました。
その当時、慶応義塾の学生であった福沢桃介に、
野犬の群れから助けられるという逸話も残されています。
明治27年(1894)に「オッペケペー節」で有名な川上音二郎と結婚。
川上一座が興行のため渡ったアメリカ・サンフランシスコの公演で、
女優「貞奴」として初めて舞台に立ちアメリカ各地で評判を得ました。
また、パリ万博で公演し、フランス政府から勲章を授かるなど、
「マダム貞奴」として一躍有名になりました。
音二郎の死後、7回忌を経て女優を引退。
名古屋大曽根に、輸出向け最上級の絹を生産販売する「川上絹布株式会社」を設立。
名古屋に居を構え、旧知の仲である福沢桃介の事業パートナーとして共に生活をしました。
桃介が東京へ戻ると、貞奴も拠点は東京へ移すものの暫くは東京と名古屋を行き来する生活を送ります。
昭和8年(1933)に岐阜県鵜沼に私財を投じて貞照寺を建立。
東京と鵜沼を行き来して生活を送りました。
昭和21年(1946)、熱海の別荘で死去。死後は貞照寺に埋葬されました。
福沢 桃介 (1868〜1938)
大正期に電力王と言われ、木曽川水系に多くの発電所を建設しました。
幼少から神童と呼ばれる秀才で、慶応義塾に進みます。
慶応義塾での優秀な成績から福沢家に知られることとなり、
福沢諭吉の次女ふさの婿となる為、福沢家の養子となりました。
明治20年(1887)にアメリカへ留学。帰国後、北海道炭坑鉄道会社に
入社するも、肺結核になり退社。入院し、病気療養の生活に入りました。
日露戦争をきっかけに株で大成功し、財をなし、
事業家への道を歩み始めました。
大正2年(1913)、名古屋電燈株式会社の取締役に就任。電力会社を合併し、
大同電力株式会社を設立しました。社長として名古屋を拠点に木曽川水系の電力開発に乗り出し、
名古屋の二葉御殿では、川上貞奴の協力のもとに政財界の接客を行い、事業の推進を図りました。
日本初のダム式発電である大井発電所など木曽川に7ヶ所の発電所を建設しました。
大正15年(1926)、事業が軌道に乗り出すと後進に道を譲り、自身は東京に戻り隠居の道を選びました。
昭和13年(1938)に渋谷の自宅にて死去。長野県南木曽には桃介ゆかりの施設が残されています。